シネマで考える共生

映画『グリーンブック』が問いかける人種と共生:1960年代アメリカ社会の構造と異文化理解のプロセス

Tags: グリーンブック, 人種差別, 多文化共生, 異文化理解, 社会学, アメリカ史, ジム・クロウ法, 偏見

「シネマで考える共生」をご覧の皆様、こんにちは。本稿では、2018年に公開され、アカデミー賞作品賞を受賞した映画『グリーンブック』を取り上げ、多文化共生の観点からその深層を読み解いていきます。この作品は、1960年代のアメリカ南部を舞台に、イタリア系アメリカ人の運転手トニー・バレロンガと、アフリカ系アメリカ人の天才ピアニスト、ドン・シャーリー博士が繰り広げる旅の物語です。人種差別が色濃く残る時代における二人の交流は、現代の多文化共生社会が直面する課題と可能性について、私たちに多くの示唆を与えてくれます。

映画の背景:1960年代アメリカ南部の人種構造

『グリーンブック』の物語を理解する上で不可欠なのが、1960年代のアメリカ南部における人種的状況です。当時、南部諸州では「ジム・クロウ法(Jim Crow laws)」と呼ばれる人種隔離法が制度化されており、公共施設における人種の分離(セグリゲーション)はもちろんのこと、教育、居住、雇用、政治参加など、社会生活のあらゆる側面に人種差別が深く根付いていました。

映画のタイトルにもなっている「グリーンブック」とは、アフリカ系アメリカ人が安全に旅行できるよう、宿泊施設やガソリンスタンド、レストランなどの利用可能な場所を記載した旅行ガイドブックのことです。これは、当時の社会がいかに制度的人種差別に満ちており、有色人種が日常的に差別と危険に晒されていたかを如実に物語っています。ドン・シャーリー博士が、たとえ著名な芸術家であっても、南部では「有色人種」として特定の規則に従わざるを得なかったことは、当時の社会構造的な不平等を象徴しています。

異なる「文化」を持つ二人の出会いと葛藤

映画の主人公であるトニーとシャーリー博士は、その出自、教養、社会経済的地位において、まさに異なる「文化」を体現しています。

この二人の旅は、まさに「異文化間コミュニケーション」のプロセスそのものです。当初、トニーはシャーリー博士の礼儀作法や教養に戸惑い、シャーリー博士はトニーの粗野な振る舞いに辟易します。しかし、旅の中で起こる様々な出来事、特にシャーリー博士が直面する人種差別を目の当たりにすることで、トニーの偏見は徐々に揺らぎ始めます。また、シャーリー博士も、トニーの純粋な優しさや人間性に触れることで、次第に心を開いていきます。

異文化理解と関係性構築のメカニズム

この映画が示唆する異文化理解のプロセスは、社会学的に見ても非常に興味深いものです。

  1. 接触仮説の検証: 心理学者のゴードン・オールポートが提唱した「接触仮説」は、適切な条件下での異文化間の接触が偏見を減少させるというものです。『グリーンブック』では、目的を共有し、協力せざるを得ない状況に置かれた二人が、長期間にわたり密接に接触することで、互いへの理解を深めていきます。
  2. 共感と視点取得: トニーがシャーリー博士の屈辱的な経験を直接目撃し、感情を共有することで、単なる知識ではなく、感情的なレベルでの共感が生まれます。これにより、トニーはシャーリー博士の視点に立つことが可能となり、これまでの自身の偏見がいかに非人間的であったかを痛感します。
  3. 文化の交換と学習: 食文化(フライドチキンを食べるシーン)、音楽(シャーリー博士の演奏)、言葉遣いなど、日常的な文化の交換が、互いの世界観を広げ、無意識の偏見を問い直すきっかけとなります。特に、シャーリー博士が黒人音楽を知らないことをトニーに指摘されるシーンは、彼が自身の「黒人としてのアイデンティティ」と「白人文化に同化した芸術家としてのアイデンティティ」の間でどのように苦しんでいたかを示しています。

多文化共生社会への示唆と課題

『グリーンブック』は、単なる友情物語に留まらず、現代の多文化共生社会を考える上で重要な視点を提供します。

結論:『グリーンブック』から学ぶ共生への道筋

映画『グリーンブック』は、過去の差別を描きながらも、現代社会が直面する多文化共生の問題に深く切り込んでいます。社会学的に見れば、この映画は、制度的差別の影響下で形成される偏見のメカニズム、そして異文化間の接触と対話がいかにして個人の意識変革を促すかを具体的に示しています。

私たちはこの映画から、多文化共生社会の実現には、法的・制度的な整備だけでなく、一人ひとりが自身の偏見と向き合い、異なる文化背景を持つ他者との対話を恐れず、共感しようと努めることの重要性を学ぶことができます。

皆様は、『グリーンブック』からどのような問いが生まれると感じますでしょうか。また、現代社会の多文化共生における「見えない壁」を乗り越えるために、私たちは何ができるでしょうか。この映画が提起する問いかけは、私たちの社会学的な考察をさらに深めるきっかけとなることでしょう。